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 面白そうな映画情報 「ロシアン・スナイパー 」 上映日 2015:10/31(土)~11/6(金)






ロシアン・スナイパー 

上映日:10/31(土)~11/6(金)

監督:セルゲイ・モクリツキー 
出演:ユリア・ペレシド、ジョアン・ブラックハム、エブゲニー・ツィガノフ
実在した女性スナイパーの真実を描き“第二次大戦終戦70周年”の掉尾を飾る戦争超大作!
ナチス兵309名を斃(たお)した 史上最高の女狙撃兵

1941年、ナチスドイツによるソ連侵攻がはじまった。まだ大学生だったリュドミラは、
女ながらその非凡な射撃の才能を買われ、戦場に身を投じる。
狙撃兵として次々と標的を仕留めるリュドミラは、やがて敵からは“死の女”と恐れられ、
軍上層部には英雄として讃えられ、戦意高揚の道具として利用されてゆく。
戦場で芽生えた恋、愛する人の死、そして新たな出逢い。
その間も戦況は悪化し、ソ連軍はセヴァストポリ要塞に追いつめられる。
そして10カ月におよぶ、壮絶な攻防戦が開始された―。
原題:The Battle for Sevastopol
(c) 2015 Kinorob., Ltd (c) 2015 Film Company New People., Ltd 
2015年/ロシア・ウクライナ /123分



イメージ 1



による、ソ連領への侵攻が開始されると、まだ大学に在籍中だった24歳の
パヴリチェンコは、キエフ市内の赤軍事務所へと赴き入隊を志願する。
希望する配属先は勿論の事狙撃手であった。
比較的安全な従軍看護婦としての選択肢もあったが、
パヴリチェンコ自身がそれを拒絶した事を後に語っている。
身体検査と狙撃手適性試験に合格したパヴリチェンコは、
二等兵として配属された。
入営後の射撃教育課程においても非常に優秀な成績を挙げたパヴリチェンコは
正式に狙撃手として選抜され、支給されたPE4型スコープ(3.5~4.0倍率)を
装着したモシン・ナガン狙撃銃で1941年8月、オデッサ市防衛の任務に就いた。
戦況はソ連にとって著しく不利な形で進行しつつあり、
ウクライナ地方でも赤軍はドイツ軍の猛攻を受けて撤退に継ぐ撤退を重ねていた。
そんな中で初陣を迎えたパヴリチェンコを含む第54狙撃連隊は、
ベルアイユフカ近郊においてドイツ軍の侵攻を食い止める防御戦を命じられる。
最初の戦闘においてパヴリチェンコは2名の独軍兵士を射殺し、
早くも友軍の兵士たちから一目置かれたという。
しかし、スターリンによる大粛清で指揮系統を担うべき高級士官の
多くを失っていた赤軍は、独軍が繰り出す戦車師団による電撃戦対抗
することが出来ず、奮戦空しく第25狙撃師団もやがて後退を余儀なくされる。
この撤退戦において、パヴリチェンコら狙撃手に課せられた任務は
非情かつ過酷なものであった。
オデッサ軍港へと後退する本隊を援護すべく最前線に残置され、
進攻する独軍の前進をその狙撃によって遅延させよと命じられたのである。
だが、赤軍の狙撃兵達は“大祖国戦争”と呼ばれたこの大戦において
愛国心に燃えており(独軍の過酷な占領政策もこれに拍車をかけた)、
この絶望的な任務にも怯む事無く果敢な狙撃を行った。
進路沿いで周到な迷彩擬装を行って待ち伏せ、
近付いて来た独軍の指揮官・通信兵・狙撃手らを最優先に、
徹底的な狙撃を加えたのである。
無論反撃によって多くの狙撃手が命を失う事となったが、
それと引き換えに彼らの任務は遂行され、これによって独軍の進攻は
大幅な遅れを強いられる事となった。
この後退戦でパヴリチェンコは枯草模様の擬装を装備して狙撃陣地に潜み、
敵を一旦やり過ごしてからその後背や側面を衝いて700~800mの長距離から
狙撃を行うという戦術を用いて多大な戦果を挙げたという。
これに続くオデッサ市での防御戦においても、パヴリチェンコは
対抗狙撃(カウンタースナイピング)の優れた才能を披露し活躍した。
第54狙撃連隊が包囲されたオデッサから黒海艦隊の援護によって脱出した際、
パヴリチェンコの確認戦果は後退戦開始から防御戦終了までの
わずか約2ヵ月半という戦闘期間で、独軍の狙撃手10名以上を含む
射殺187名にまで上っていたとされる。
これらの功績と赤軍の指揮官不足も手伝って、パヴリチェンコは
短期間のうちに上等兵から少尉まで昇進した。
なお、パヴリチェンコはこの時期に狙撃銃をモシン・ナガンから
トカレフSVT-40に変更したと思われる。
これはパヴリチェンコが得意とした後退戦闘や防御戦闘、あるいは
近~中距離での市街戦という限定状況下での狙撃には、
遠距離射撃の精度に優れるが装弾数5発でボルトアクション式の前者よりも、
遠距離射撃には不向きでも装弾数が10発と多くセミオートマティック式
後者の方が扱い易いと判断したからである。
SVT-40の狙撃銃としての一般の評価は低いが、
比較的軽量な狙撃銃である事も手伝って赤軍の女性スナイパーたちの
多くはこの銃を愛用した。
オデッサから脱出したパヴリチェンコと第54狙撃連隊は、
そのまま黒海艦隊の艦船で激戦の続くクリミア半島セヴァストポリに派遣された。
ここでも包囲されたソ連軍と押し寄せる独軍という構図は変わらず、
パヴリチェンコの対抗狙撃はさらにその冴えを増す事となった。
数ヵ月後の1942年5月の時点で中尉に昇進していたパヴリチェンコの
確認戦果は257名にまで増加しており、これによって赤軍南部委員会から
個人感状を贈られている。
黒海艦隊の来援により一旦は独軍のセヴァストポリ包囲網を
打ち破ったソ連軍だったが、その後ケルチ半島での敗北から
逆襲に転じられ、マンシュタイン指揮下の独軍に再度包囲されてしまう。
1942年6月、セヴァストポリ要塞は独軍のカール自走臼砲グスタフ列車砲まで
つぎ込んだ1300門以上もの大砲による徹底的な砲撃に晒され、
その地下陣地の殆どを破壊された。
パヴリチェンコもこの砲撃によって迫撃砲弾の破片を受け負傷、
コーカサスの赤軍病院に移送される事となりクリミア戦線を離脱する。
砲撃開始から約1ヵ月後、セヴァストポリはついに陥落した。
約1ヶ月の療養を経て退院したパヴリチェンコは、北コーカサスにも
侵攻してきた独軍を迎え撃つべく再度前線に復帰して狙撃を続けた。
しかし、既にその功績によってソ連のほぼ全土からその名を
知られるまでになっていた英雄を失う事を恐れた軍指導部は、
パヴリチェンコを新設した女子狙撃教育隊の教官に任命し、
前線を離れる事を命じる。
これによりパヴリチェンコの第二次世界大戦における戦闘は、その幕を引いた。
最終的な確認戦果は独軍兵士309名、その内36名は狙撃手だったとされる・・・

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